こんにちは、千葉県北西部住みのチーバBB(バイクバカ)です。
ハーレーディーラーの店長さんで、「ハーレーで人生を変えろ!」が口癖の方がいますが、ハーレーダビッドソンを手にして以来、人生が変わり始めてきたことを実感する日々です。
いい歳してと言われるお年頃ですが、いい歳だからやらねばならないこともあるわけで、周りに何を言われようがこの道を極めたい。
筆者にとってバイクバカという言葉は最高の褒め言葉、バカも極めれば苦労を知らない天才を凌駕出来ると思っているので、これからもバイクバカを貫きます!!
今回も前回に続き、空前のバイクブームが起きていた1982年の軽二輪国内販売台数トップ10を、チーバBB秘蔵のカタログコレクションとともに振り返ってみます。
前回記事の自動二輪編ではホンダCBX400Fが、2位をダブルスコア以上の台数差で引き離し圧倒的な1位となりましたが、その下の排気量クラスである軽二輪はどうだったのでしょうか?
タイトルは、『バイクが大ブームだった1982年の軽二輪をチーバBBがプレイバック』です。
- バイクが大ブームで上野の街はライダーたちの聖地となった
- 忘れちゃいけない1982年はあの映画が公開された年
- 1982年の軽二輪国内販売台数ベストテンを振り返る
- バイク用品もバカ売れ!最大のヒット商品をチーバBBがプレイバック
バイクが大ブームで上野の街はライダーたちの聖地となった
1982年の軽二輪の国内販売台数ベスト10発表の前に、41年前の東京都台東区上野の街の様子を振り返ってみます。
上野とはパンダで有名な上野動物園がある上野のことです。
上野は日本の首都である東京の、23区内の台東区にあり、上野駅は今でも主要路線の発着駅として栄えていますが、なぜチーバBBが上野の街の話を振ったのか。
それはバイクが大ブームとなった1982年当時、上野駅から首都高速入谷ランプまでの高架下両サイド(昭和通りと言います)は、上野バイク街と呼ばれ、ライダーたちの聖地となっていたからです。
軒を連ねたバイク屋さんは用品専門店も含めると100店以上は有にあったと思われ、週末となるとライダーたちで溢れかえっていました。
チーバBBも例外にもれず、週末は半日以上滞在してました。
そこはもう宝箱の中おようで、いるだけで楽しかったのです。
バイクには既に乗っていましたから、ドレスアップパーツを探しにバイク用品店をあっちフラフラこっちフラフラという感じで。
とにかく飽きなかったです。
ーあれから40年が経ち、去年バイク街のあった場所を歩く機会があったのですが、昔の面影はほとんどなく、今でも営業しているお店は数えるほどでした。
忘れちゃいけない1982年はあの映画が公開された年
日本は世界的に見てもバイク大国であり、ホンダ、ヤマハ、スズキ、カワサキという四大メーカーはレースの世界でも上位を席捲していました。
が、世界GPレーサーは外人ばかりで(60年代のクニさんこと高橋国光さんや、77年GP350クラス世界チャンピオンになった片山敬済さんは別格として)、国内のGPレーサーも、ちょっと小太りの人だったり、ヘルメットを取ると残念な顔をしたおじさんが多かった記憶があります。
ところが1982年、容姿端麗で実力も兼ね備えた、絵になる忘れちゃいけない男が注目を集め始めたのです。
その名は平 忠彦。
長身でスタイルが良かったことから、1982年12月に公開された角川映画『汚れた英雄』では主人公の北野晶夫を演じる草刈正雄さんのスタント役に大抜擢され、代わりにレースシーンを撮影したのです。
スタイルの良さは勿論のこと、お顔の彫が深くって、ホストとと言っても通るくらいのイイ男で、瞬く間に大人気となりました。
また、この映画がキッカケとなったのか、本業のレーサーとしても大輪の花を咲かせ、1983年から3年連続で国内GP500㏄クラスの日本チャンピオンを獲得しました。
84年以降は数年間世界GPにも参戦し幾度か入賞も果たしており、86年にはGP250のサンマリノGPにて優勝も遂げました。
1982年の軽二輪国内販売台数ベストテンを振り返る
では前回の自動二輪に続き、1982年の軽二輪国内販売台数ベストテンを、チーバBB秘蔵のカタログコレクションとともに振り返ってみましょう。
第10位 ヤマハXS250 国内販売台数 2,319台
XS250と言ってもSPECIALがつくアメリカンタイプも併売していたので、正直どっちを指しているのかがわかりませんが、申し訳ないけどXS250の記憶はほとんどなく、カタログも所有していませんでした。(-_-;)
第9位 ヤマハXT250 国内販売台数 2,355台
オフロード車とかトレール車とか呼ばれて人気を博したモデル。
ヤマハのモノクロスサスペンション(リヤサスが2本でなく、1本のタイプでスプリングの部分はシート下に隠される)は、もともとこれらオフロード車のために作られたもので、それがやがてオンロード車にも採用されていきました。
第8位 スズキGSX250E2 国内販売台数 4,761台
8位はカタナシリーズの250㏄版。
750㏄のカタナほどクセは強くなく、無難にまとまったスタイルでした。
信頼のアンチノーズダイブ機構は例外なくこのGSXにも装備されていました。
これは、激しいブレーキング時にもフロントフォークが激しく沈みこまない、当時としては画期的な機能でした。
第7位 ホンダCB250RS/Z 国内販売台数 6,693台
7位はチーバBBも1982年に乗っていたCB250RSのセルスターター版であるCB250RS/Z。
RSより馬力が1馬力アップし、フロントサスペンションにはセミエアサスが奢られ、フロントブレーキのキャリパーはシングルからデュアル化し、ディスクローターは穴あきタイプになりました。
さらにヘッドライトもハロゲン化されました。
チーバBBと高校卒業間際の3月に、RSで2ケツして東京見物してからバイクにハマってしまった友人は、中型免許を取得後に新車でRS/Zを購入したのですが、技術は日進月歩だということを実感したことが思い出されます。
第6位 ヤマハXS250(新) 国内販売台数 7,202台
6位は10位に続いてまたまたXS250がランクインしましたが、こちらには(新)が付きます。
6位のXS250(新)もカタログが無いくらいなので印象がありません。
当時のアメリカンバイクは、ハンドルとシートをそれ風にしただけで、エンジンはスポーツ車という共通した構成でした。
第5位 CB250T 国内販売台数 7,279台
5位はアニメ&実写版、東京リベンジャーズの総長、無敵のマイキーのバブです。
格好は決していいとは言えず、早いとも言えないバイクなのですが、名機CBシリーズの末弟として、その系譜から人気を博したと思われます。
カタログも専用の物はなく、写真の向かって左がホークⅡと呼ばれ、その250㏄版がCB250Tとなります。
バブというのは排気音が似ているところからつけられたもので、モデル名はCB250Tと言います。
第4位 GSX250T 国内販売台数 14,260台
ここから販売台数は1万台超えしていきますが、4位はGSX250T。
末尾のTはトラディショナルからきていますが、アメリカンでもない、ロードスポーツでもない中間に位置するスタイリングです。
ブレーキはフロントがシングルディスクでリヤがドラムとプアーな装備でしたが、エンジンはGSX250Eと同じだったので走りは良かったようです。
第3位 ホンダXL250R 国内販売台数 17,160台
当時オフロード車の中では一番人気があったモデルで、9位のヤマハXT250より遥かにあか抜けたスタイルと装備はダート好きのライダーを虜にしました。
第2位 ヤマハRZ250 国内販売台数 17,605台
2位は前年1位のRZ250で、1位があのバイクでなければ2年連続の首位は固かったでしょう。
80年に衝撃的なデビューをしましたが最大の売りは最高出力。
それまでは同じ2ストロークのスズキRG250Eが30馬力でトップでしたが、一気に5馬力アップの35馬力で登場しました。
そのパワーの出方は暴力的で、6500回転までは原付にも負けそうなほど非力なくせに、
6500回転を境に急激にトルクカーブは上昇し、暴力的な加速は段付きロケットと評されました。
スタイルも市販レーサーのTZ250を彷彿されるもので、ネーミングはTZから波及したようです。
第1位 ホンダVT250F 国内販売台数 30,957台
2位のRZとはダブルスコアに迫る勢いの3万台越えをしたVT250F。
打倒RZを目指し、ホンダが総力を決して投入したハイパーツイン。
最大の売りは超高回転型のエンジンで、馬力こそRZと同じ35馬力ですが、最高出力は11000回転という超高回転で発揮されました。
他にもリヤサスにモトクロスで鍛えられた1本ダンパーのプロリンクエアサスペンションを奢り、フロントブレーキは兄貴車CBXと同様のインボード・ベンチレーテッドディスクブレーキを装備、フロントホイールはロードスポーツ車の250㏄としては初の16インチホイールを履かせて旋回性を高めていました。
あの頃、石を投げるればVTに当たると言われるほど、街中に溢れていた名機でした。
バイク用品もバカ売れ!最大のヒット商品をチーバBBがプレイバック
1982年はバイクの国内販売が空前絶後の329万台と売れに売れたわけですが、バイクがバカ売れたしたということはその数だけライダーもいたわけで、バイク関連用品の売り上げも現在の比ではなかったのです。
特にチーバBBがプレイバックしたいのは用品の中でも最大のヒット商品であるヘルメットです。
とりわけあるトップレーサーのヘルメットは、石を投げればあのレプリカヘルメットに当たると言われるほど街中に溢れかえりました。
それが誰あろう当時のホンダワークスライダーで、翌年史上最年少でGP500の世界チャンピオンを獲得したフレディ・スペンサーその人。
彼のアライ製のレプリカヘルメットは飛ぶように売れ、街中はスペンサーだらけになっていました。
チーバBBも危うく?手を出すところでした。
彼の走りの特徴は膝を起点としてコーナーリング中に方向を変え、立ち上がりで加速をしていくスタイルでした。
顔だけ見るとお坊ちゃんみたいな可愛い顔をしてるんだけど、走らせたら誰よりも早く、初来日した日本GPに参戦した時も、確かいきなり鈴鹿のコースレコードを塗り替えたんじゃなかったかな。
レース人生終盤はケガに泣かされたようですが、全盛期はとにかく速かった!につきます。
まとめ
1982年はバイクの国内販売台数が空前絶後の329万台を記録し、東京の上野駅周辺にはライダーの聖地、上野バイク街がありました。
また、バイクに関連する映画としてはスマッシュヒットとなった角川映画の「汚れた英雄」が公開された年であり、主人公のスタント役を担当したレーサー平 忠彦は以降、容姿だけでなく実力も伴って大人気を博しました。
軽二輪のベストテンではVT250Fが自動二輪のCBX400Fに続き、ホンダ勢の独壇場となり、VTは街中に溢れかえりました。
さらのこの年はバイク用品も売れまくり、特にホンダのワークスライダー、フレディ・スペンサーのレプリカヘルメットは飛ぶように売れました。
いかがでしたでしょうか。
現在もバイクブームが来ているとささやかれていますが、微力ながらバイクの魅力を伝えていきたいですね。
最後までお付き合いいただきまして、ありがとうございました。