50代の生き方

離婚して始まった50代からの第二の人生を謳歌するためのマインドを綴ります

太宰さんと親交があった伯父さんを思い出す季節 (前編)

 

 

直木賞・芥川賞候補が選出される時期、思い出すのは親戚の伯父さん

 

またその季節なのか、、

 

この季節になるといつも、もう40年近く前に亡くなった親戚の伯父さんのことを思い出す。

 

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東京都の国分寺市内に伯父さんの家はあり、子供の頃はよく両親に連れられて出かけたものだ。

 

体は小柄だったけど眼力のある人で、自宅の客間の定位置にドンと座り、ほとんど席を動かなかった伯父さん。

典型的な昭和のオヤジだった。

だから、子供の私には恐いイメージがあり、伯母さんの方が断然好きだった。

余談になるが、伯母さんは私が物心ついたとき既にオバさんだったが、若い頃はキレイだったに違いない。なぜなら、娘さん(私のいとこ)が30代の頃、今の”ゴマキ"に顔が良く似ていたので。

 

伯父さんの家は商売をされていて、伯父さんは釣具屋、伯母さんは豆腐屋の担当。

 

伯母さんは遊びに行くといつも忙しく働いていたが、伯父さんの釣具屋は完全な娯楽と趣味だと、子供だった私の目には映っていた。お客さんが来たのを見たことがなかったから、、

 

伯父さんはずぅーっと釣具屋だと思っていた。

 

ところが、数年前に知ったんだけど、伯父さんが若い頃は隣町の東京都三鷹市で鰻屋をやっていた。

 

驚愕、、文豪界の超大物との親交を知る

 

でその頃、文豪界の超大物と実の兄弟のような親交があったことを知る。

 

その人がなんと、、この人。

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太宰 治さん。

 

伯父さんの店の味をこよなく愛し、夕方には店に来てよく酒を飲んでいたらしい。また、他の作家さん達も太宰さんが店の常連と聞きつけ訪ねていたそうだ。

 

当時としては高身長(175cm)で、かつ、男前だったので、店に連れてくる女性は一人ではなかったようで、毎日のようにビールをご馳走していたとか。

 

今でこそビールは誰でも買える飲み物だが、戦後すぐの時代ではなかなか入手が難しかったらしく、その点、伯父さんはビールの調達が上手で、そのあたりも太宰さんに気に入られた理由のひとつみたいだ。

 

太宰さんというと、暗いイメージを持たれる方が多いかもしれないが、お酒を飲んでいる時はすごく周りに気を使って、人をもてなす精神が旺盛で、話上手で楽しいおじさんだったという話もある。

 

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伯父さんの店、三鷹の若松屋でビールを飲む太宰さん

 

また、太宰さんは編集者に住所を知られたくなかったようで、店を編集者との連絡場所として使うこともあり、伯父さんは当時としては珍しい、自転車を持っていたので、出版関係者が店を訪ねてくると自転車を走らせて太宰さんの自宅に知らせに行ったり、編集者が持ってきた原稿料を伯父さんが預かって、あとから太宰さんに届けに行くこともあったというくらいの信頼関係があったようだ。 

 

太宰さんに好かれた伯父さん、小説にも本人で登場

 

でその伯父さん、店の屋号と同じ“若松屋"の主人として太宰さんの小説、『眉山』※1と『メリィクリスマス』※2にも登場していた!!

 

伯父さんは最初、屋台の鰻屋を出し、翌年に斜め向かいの店に移転したらしいが、

屋台時代、太宰さんは通常お客さんが座る手前側でなく、店主が立つ奥側に陣取り、通行人を観察することがあったそうな。

 

※1:中央公論で1947年1月に発表。疎開した津軽から約1年3ヵ月ぶりに上京し執筆。

※2:小説新潮で1948年3月に発表。一人の少女の少し哀しい短編小説。

 

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左:屋台のイメージ 右:太宰さんと親交があった頃の伯父さん

 

生前、伯父さんは太宰さんと親交があったなんて一言も言ってなかった。うちの両親も数年前まで知らなかった話だから、子供の私が知るよしもない。

 

どうも伯父さんの家では、太宰さんの話題は外部へ箝口令を敷いていた節があるのだ、、(もっと衝撃的な後編につづきます)

 

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