私にとってバイクバカと呼ばれることは最高の褒め言葉、バカも極めれば天才をも凌駕出来ると思っているので、これからもバイクバカを貫きます!!
私このたび、認定中古車として購入して納車から約2年になったマイハーレーダビッドソンを、苦渋の思いから売却する決断をしたので、計2話に渡ってこれまでのバイク歴を振り返りながら、どんな経緯でハーレーへの憧れが芽生え始めたのかを綴りたいと思います。
【マイバイク歴を振り返る】ハーレーは脳裏にまだなかった若き時代
私がライダーの仲間入りをしたのは1981年。
最初は原動機付自転車に始まり、翌年には自動二輪中型免許を取得して250㏄のバイクへ、更にその年末には400㏄のバイクへとステップアップしていきました。
年齢にしたら18,19の若き時代ですから近県の峠道にもよく通わせてもらい、バイク仲間のライバルとはよく一緒に走ったものです。
ライバル車とはエンジン馬力が同じでも、今は無き2サイクルエンジン搭載の250㏄のバイクの方が速くて、私も4サイクル4気筒の400㏄から、2サイクル250㏄のエンジン搭載のレーサーレプリカに代替したのでした。
これでライバルとは対等になったと思ったのも束の間でした
ライバルは自動二輪免許の限定解除にチャレンジし、750㏄の通称ナナハンに乗り換えたのです。
ライバルがせっせと運転免許試験場に通い、合格後にナナハンを買っても最初は気に留めることはありませんでした。
ですが、排気量の差を嫌という程思い知らされることになる出来後が起きます。
それは初めて行った北海道ツーリングでした。
そのライバルと2人で道が空いている北の大地を走ったのですが、トップスピードだったら遜色なかったかもしれませんが、一般道の街乗りでは排気量の大きい方がトルクに余裕があり、アクセルひとひねりでワぁーと加速していきます。
そこ北海道では、初めての北の大地で景色に見とれていたというのもあったけれど、油断いているとすぐに引き離されて、姿が見えなくなっては先で彼が待っているということを繰り返すうちに、これでは予定時間に宿に着かないと叱責されてしまいます。
その時です、決断したのは。
運転免許証の限定解除にチャレンジしてナナハンに乘ろうと。(限定解除という言葉も最近聞かないね、いまは教習場でとれるから。)
免許が取れたらスポーツバイクに乗る予定でした。
この頃はまだハーレーダビッドソンのことは脳裏にまだ欠片もなかった時代でしたが、その運転免許証の限定解除を果たすことで様子は一変したのでした。
ハーレーダビッドソンへの憧れが芽生えたバイク歴第一期終盤
免許証の限定解除を果たすために運転免許試験場には足掛け半年くらい通いました。
そして念願の限定解除を果たし、私も初のナナハンを手にしたんです。
ですが、購入した車種は直近のレーサーレプリカではなく、国産車で最もハーレーダビッドソンを意識したと言われた、スズキのイントルーダーでした。
スポーツバイクではなく、なぜこのバイクにいったかと申しますと、カタログのキャッチコピーが私の琴線に触れたんです。
それまでのバイクカタログのキャッチコピーって、誰がつけたのこのタイトル?って思うくらいセンスがなかったの。
でもスズキイントルーダーのキャッチコピーはカッコ良くってね。
読むたびに無性に購買意欲をそそられ、ついには実車も見ずに馴染みのバイク屋にオーダーを入れたのでした。
国産初のアメリカンバイクとして注目はされていたと思います。
確かに外観は似てました。
ですが、エンジンは水冷だったし、排気音もマイルド過ぎた。
申し訳ないけど本家アメリカのハーレーダビッドソンには遠く及ばなかった。
だからこれを所有しながら、いつかはハーレーだなと憧れの念が芽生えた時期でした。
このイントルーダーは1年と乘らずに乗り換えて、以後、カワサキGPZ750R、ヤマハSRX600、ヤマハFJ1200へと乗り継ぎ、27歳でチーバBBのライダーとして歴史の第一期は一旦幕を閉じたのです。